日経平均は5万円まで上がっていたはず

第2事業法人部では、法人向けの営業活動だけでなく、金融商品の開発にも取り組んだ。金融国際化の波に乗ろうとする野村證券。本社の号令のもと、横尾氏は「天国地獄債」など、当時としては画期的な金融商品を編み出し、世に送り出した。

「『天国地獄債』は、為替レートによって大儲けすることもあるし、大損することもあるということで、この名称になったのです。その年の最も優れた債券ということで、フランスの有名な賞を取り、日経新聞の1面に記事が掲載されました。

当時の担当取締役もこれには喜んで『(高級ブランデーの)ナポレオンをあげよう』というので、『ナポレオンはいりません。代わりに溜まっている飲み屋のツケを払ってください』とお願いしたことを、よく覚えています」

1985年9月22日に、いわゆる「プラザ合意」が結ばれると、円高ドル安の流れが一気に加速する。この緊急事態に対応するため、野村證券は当時、株式担当だった橘田喜和取締役が発案した「トリプルメリット」と「ウォーターフロント」というふたつのキーワードで、株式市場を牽引していった。

「トリプルメリット」とは「円高、金利安、原油安」のこと。一方の「ウォーターフロント」とは、再開発プロジェクトにより地価が高騰した東京湾岸地域を指す。

「トリプルメリットの恩恵を受ける企業として、電力会社やガス会社、さらに関電工など電気設備会社の株が多く買われたのですが、次第に他業種も巻き込んで、相場全体が上がっていったんです。

トリプルメリット相場が落ち着き始めると、今度は『ウォーターフロント』が盛り上がり、東京湾岸に土地を保有するIHIや東京ガス、日本鋼管(NKK)などの銘柄が盛んに買われていました。

株価が暴騰するのに伴い、エクイティファイナンス(株式発行を伴う資金調達)も流行しました。特にワラント債(その会社の株を取得する権利がついた社債)は当時、マイナスコストで発行できたので、多くの会社が2000億円とか3000億円分の債権を発行。集まった資金をふんだんに研究開発や設備投資に使っていった。

あの頃、日本では半導体などの技術開発が急速に進みましたが、それを支えていたのは、野村が仕掛けた『トリプルメリット・ウォーターフロント相場』でした。この相場がなければ、日本経済は急激な円高によって間違いなく崩壊していたでしょう」

 

1987年のブラックマンデーで、一時株価は低迷するも、1989年末には日経平均株価が過去最高となる約3万8900円を記録した。しかし、1990年代に入るとバブル崩壊により株価は大暴落。証券会社が大口顧客の損失を補填する「証券不祥事」も起こり、国民の証券業界に対する不信感が高まっていく。

横尾氏は、野村證券による損失補てんが発覚し、田淵義久氏が辞任する時の様子も克明に記している。

〈 社長辞任会見の3日後に開催された、91年6月27日の野村の株主総会の日。その様子は、総会が開かれている8階の講堂の横に並べられたモニターで見た。昭和シェルのワラント売買に関する記事が出て以降、私は「あいつが張本人だ」と戦犯扱いされ、簡単に社内を歩ける状況ではなかった。

87年末に鈴木専務の指示を受け、良かれと思って必死に取り組んだことが、結果的に田淵社長を辞任に追い込んでしまった。〉

内部にいた者しか知り得ない野村の混乱ぶりを、すべて実名で描いた本書は、まさに「秘録」と呼ぶにふさわしい。

横尾氏は同時に、日本の株価が長期にわたり低迷している理由についても、独自の見解を示す。

「証券不祥事を受けて、野村では『特定の銘柄を推奨してはいけない。適合性の原則(顧客のレベルにあった勧誘をすること)を守れ』などと口うるさく言われるようになりました。

しかし私は、証券マンが銘柄を推奨しなくなったことが株価低迷の要因だと思っています。投資に関する教育をほとんど受けない日本人は、営業マンに推奨されなければおいそれと株を買うことはできない。もちろん、伸びない会社を推薦してはいけませんが、これはという企業には積極的に投資するべきです。そういう健全な市場ができていれば、今ごろ日本の株価は4万~5万円台まで上がっていたと思います。

ただ、一方で証券マンの<質>が、平成に入るころから下がってきたのも事実です。どこが伸びる会社なのか、お客さんは何を求めているのかが判断できない社員が増えてきたのです」