山形大学の不祥事に思う[2013年02月24日(Sun)]
 山形大学関係者の逮捕者が相次いでいる。山形大学というと、地域では名門の国立大学である。その名門大学で、昨年の4月から今年度だけで、何と13名の逮捕者を出しているという。そのうち大学生だけだと7名というから、教職員だけでも6名いるということだ。警察関係者が山形大学を目の敵にしている訳でもあるまいし、また冤罪でもないと思うし、どうしてこんなに逮捕者が出ているのだろうか、実に不思議な話である。普通ならあり得ないような事が、次から次へと山形大学で起きているみたいだ。凶悪犯罪はないようだが、破廉恥極まりない犯罪を起して、逮捕されているという。実に情けない話である。

 さて、こんなにも逮捕者を出すのだから、何かしら原因があるに違いない。偶然というには、あまりにも数が多すぎる。何か、山形大学は特別なことをしているのだろうか。それこそ、何か得たいのしれない悪霊にでも取り憑かれたのではあるまいかと思ってしまうぐらい多い不祥事である。大学関係者に取材しても、他の大学と比しても特別に変わったことをしている訳ではないという。ごく当たり前の大学経営をしていて、取り立てて管理が杜撰だということもないらしい。しっかりした教育も行われているし、教職員に対する管理もしっかりしているらしい。思い当たることは何もないと口々に言う。

 しかし、他の大学と違う点が一つあることに注目したい。それは学長である。他の国立大学は教授の中から推薦で学長になるが、山形大学だけは違う。今から5年前に就任した結城学長は、何と官僚出身者である。大学においては異例のことだが、文科省の事務方トップである事務次官からの転身である。当時、天下りだとかなりの批判があったが、教職員の投票結果を無視した形で、強引に学長に就いたらしい。結城学長のことはよく知らないが、たぶん立派な人なんだと思う。文科省のトップに上り詰めたキャリア官僚なのだから、とても優秀で素晴らしい人材に違いない。

 だとしても、果たして学長として相応しいかというと、一概に適任だということは言えないのではないかと思うのである。なぜかと言うと、官僚はあくまでも官僚でしかないからである。官僚は法律に基づいて仕事を実行するし、法律を作ることにかけては長けている。しかしながら、人間を育てるという点においては不得手である場合が多い。ましてや、自由闊達な雰囲気の大学というところで、徹底した管理手法による支配を行ったとしたらどうなるであろうか。自立には程遠いような人材育成がされることだろう。言われたことは出来るが、自分で考えて自発的に主体的に行動できる人間は育たないであろう。つまり、自分で自分を律することが出来ないような教職員と学生を作り出してしまう危険があるのである。

 ましてや、文科省は教育界に徹底した管理教育を導入してきたのである。文科省からやってきた学長が、学内に徹底した管理教育の手法を導入したと誰もが想像するであろう。そして、文科省は国立大学から哲学科を無くそうと画策しているのだ。教育界では、思想哲学は不要だと思っている文科省なのである。山形大学でも、徹底した能力・技術教育に重点がおかれ、思想哲学の教育がないがしろにされたのは、当然だと思われる。人間形成にとって一番大事な哲学がおろそかにされてきたのである。人間性なんて育たなかったに違いない。たから不祥事が起きたとしか思えないのである。

 大学というのは、確かに高い能力や技術を持った人材を育成する場所である。しかし、それ以前に、何のために生きるのかとか、誰の為に学び研究するのかという、根本的な理念を教育しなければ、本当の人間性豊かな人材は育たないのである。文科省が今まで進めてきた、思想哲学の排除と徹底した管理教育は、真の人間形成には逆行していると言える。その文科省の最先端にいたトップ事務方が学長になったのであるから、結果は押してしかるべし。潔く自分の非を認めてすぐにでも退くことが、山形大学を再生する近道だと思う。部下や学生が不祥事を起したら、トップがその責任を取るのは当たり前ではないだろうか。