杉内 俊哉 鹿児島実業→三菱重工長崎→ダイエー(現ソフトバンク)→巨人

(すぎうち としや、1980年10月30日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。福岡県大野城市出身(春日市生まれ)。
福岡ソフトバンクホークス所属の新垣渚とは義兄弟。

高校3年生時の1998年、全国高等学校野球選手権鹿児島大会決勝では、共に当時から注目を集めていた川内高校の木佐貫洋との投げ合いに勝利し、甲子園出場を決めた。県大会では47回2/3で64三振を奪い、「南国のドクターK」と称された。
多種の変化球を自在に操った制球力が武器の投手。そして、いわゆる「松坂世代」の一人である。

2012年5月30日の楽天戦(東京ドーム)でプロ野球史上75人目(86例目)で、セ・パ交流戦ではリック・ガトームソン以来2人目(日本人選手の達成は史上初)となるノーヒットノーランを達成(9回2死まで1人も走者を許さず。あと1人で完全試合達成という場面で9番・田中将大への代打・中島俊哉に四球を与えた)。巨人では、背番号18で三人目のノーヒットノーラン達成者となった[17]。6月5日には古巣のソフトバンク戦(ヤフードーム)で勝利を挙げた。
また高校時代にも夏の甲子園でノーヒットノーランを達成しており、高校野球の全国大会とプロ野球の双方での達成も史上初である。                  引用 wikipedia

第80回全国高校野球 鹿児島実(鹿児島)-八戸工大一(青森)最後の打者をショートライナーに打ち取りノーヒット・ノーランを達成。

◆杉内の98年夏の甲子園 鹿児島実のエースとして、1回戦で八戸工大一高相手に速球と大きなカーブがさえ、11大会ぶりのノーヒットノーランを達成した。16三振を奪い、許した走者は6回2死後の四球だけと“準完全試合”だった。2回戦では春夏連覇を果たした横浜高と対戦し、松坂大輔との投手戦は5回まで両軍無得点も、6回に無安打で先制された。8回には松坂の2ランなど5安打で5点を許して0―6と完敗した。

新垣 渚  沖縄水産→九州共立大学→ダイエー(現ソフトバンク)

(あらかき なぎさ、1980年5月9日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。「渚」の字は正字体(渚、「日」の右上に点がつく)が正しい。
読売巨人軍の杉内 俊哉とは、義兄弟。
そして、新垣もまた「松坂世代」の一人である。

1998年は沖縄県立沖縄水産高等学校の主力投手として第70回選抜高等学校野球大会・第80回全国高等学校野球選手権大会出場を果たし、松坂大輔(横浜高等学校)と共に注目を集めた。全国大会史上初の151km/hを記録したが、どちらも初戦敗退。特に夏季大会は大島裕行(埼玉栄高等学校)に逆転本塁打を浴びた。

ドラフト会議ではオリックス・ブルーウェーブと福岡ダイエーホークスが1位指名で競合。オリックスが交渉権を獲得したが、新垣は「ダイエー以外なら進学」と決めており、新垣の実家を訪れたオリックス編成部長(スカウト)の三輪田勝利を門前払いするなど頑なに入団拒否の姿勢を見せ、交渉は難航した。その後、三輪田が自殺を図るなど大騒動となったが、新垣は入団拒否の姿勢を貫いて九州共立大学へ進学した。ダイエーは外れ1位で吉本亮(九州学院高等学校)を獲得した。
九州共立大学では1999年に明治神宮野球大会で優勝するなど、大学球界を代表する右腕として活躍。2002年のドラフト会議でおいて、福岡ダイエーホークスに自由獲得枠で入団した。

引用 wikipedia

涌井 秀章  横浜高校→西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)

(わくい ひであき、1986年6月21日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。

小学生時代はソフトボールをしており(寒風台ソフトボールチームに所属)、野球は中学生になってからシニアリーグ(松戸シニア)で始めた。その後横浜高に進学。
国体秋季大会では、初戦の駒大苫小牧戦で14三振を奪って完投勝利を収め、決勝ではダルビッシュ有(現・テキサス・レンジャーズ)の東北高校を下し優勝している。

高校時代の涌井について、横浜高の野球部長・小倉清一郎は「松坂よりも我慢し、辛い練習に耐え、乗り越えてきた」と称賛。その後、甲子園で147km/hを計測した涌井を見た松坂大輔は、「相当な努力をしたと思う」と評価した。最速148km/hのストレートとスライダーを投げ、2004年ドラフトで西武ライオンズから、単独で1巡目指名を受けた。西武に対する印象を聞かれ「松坂さんと同じチームで出来るのでとても嬉しい、西武に行きたかった」と答えている。また小倉部長は「最高のチームが指名してくれた」と語った。

入学時から松坂大輔二世と呼ばれていた。高校2年春に第75回選抜高等学校野球大会に1学年上のエース成瀬善久(現・千葉ロッテマリーンズ)らと共に出場。準決勝までは成瀬のリリーフとして登板。決勝戦では先発したが、広陵高の打線につかまり3-15と大敗した。第85回全国高等学校野球選手権大会神奈川県予選では決勝進出を果たしたが、エース給前信吾、同学年の田澤純一(現・ボストン・レッドソックス)を擁する横浜商大高校に敗れ春夏連続出場を逃した。

3年夏には第86回全国高等学校野球選手権大会に同期の石川雄洋(現・横浜DeNAベイスターズ)や2年後輩の福田永将(現・中日ドラゴンズ)らと出場。1回戦の報徳学園戦では片山博視(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)から本塁打を放つなど打撃でも勝利に貢献し、2回戦の京都外大西戦は、延長戦にもつれ込んだが幾度と訪れた大ピンチの場面も我慢のピッチングで乗り切り完封勝利。肉体的にも精神的にもスタミナのある面を披露。3回戦の明徳義塾戦は中田亮二(現・中日ドラゴンズ)に本塁打を浴びるなど序盤に失点するも後半粘りのピッチングを披露し逆転勝利、この試合では現チームメイトの松下建太に投げ勝つ。準々決勝の駒大苫小牧戦は林裕也(現・東芝硬式野球部)にサイクルヒットを浴びるなどして完敗した。

藤川 球児  高知商業→阪神タイガース

(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
元高知ファイティングドッグス・ゼネラルマネージャーの藤川順一は実兄。
父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた。少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。広末涼子とは中学時代の同級生。阪神入団時に激励の手紙も貰っている。中学時代には鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けている。幼少期はぜんそくを患っているなど決して丈夫な体ではなかった。

村田 修一  東福岡→日本大学→横浜ベースターズ→巨人

(むらた しゅういち、1980年12月28日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(内野手)。
こちらも「松坂世代」の一人。

1980年に生まれる。未熟児として生まれ、小学生時代は軟式野球チーム「勢門ベアーズ」に所属し、東福岡自彊館中学校・東福岡高等学校では粕屋町のボーイズリーグ「粕屋フェニックス」に所属していた。
高校時代では投手として甲子園に春夏連続出場を果たし、高校日本代表にも選ばれ、アジア最優秀防御率(0.00)を記録した。

2002年のドラフト会議において、横浜ベイスターズに自由獲得枠で入団。この年、高校の後輩に当たる吉村裕基も入団した。
その後、2011年のオフにFA宣言し、12月8日に読売ジャイアンツへの移籍を発表。
背番号は横浜時代と同じ25。5月1日、第76代4番打者に就く。

選抜では松坂大輔(横浜高等学校)と投げ合って敗退、夏は古木克明を擁する豊田大谷高等学校に敗れて初戦敗退。高校通算30本塁打。本人曰く「投手としては松坂(大輔)には勝てない」と考え、日本大学進学後は野手へ転向した。大野隆治(元福岡ソフトバンクホークス)とは高校・大学ともに同僚で、特に高校時代はバッテリーを組んでいた。大学時代は3年秋に、井口資仁と並ぶ1シーズン8本塁打を記録し、通算20本塁打(歴代2位タイ)を放つなど、東都大学リーグ屈指の強打者だった。リーグ通算104試合出場、打率.275・20本塁打・70打点、ベストナイン4回。

堂上兄弟(剛裕・直倫)  愛工大名電高校→中日ドラゴンズ

(どのうえ たけひろ、1985年5月27日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。
父は元中日ドラゴンズ投手の堂上照、弟の堂上直倫も中日ドラゴンズ所属の内野手。
初球のストライクはほぼ必ず打ちにいく積極的なバッティングも魅力。兄弟揃って私設応援団による応援歌が作られ、最後のメロディが兄弟で同じ旋律が使われていたが、2012年に作り直された際になくなった。

(どのうえ なおみち、1988年(昭和63年)9月23日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
高校時代は超高校級スラッガー、尾張のプリンスとも呼ばれた。
父は元中日ドラゴンズ投手の堂上照、兄の堂上剛裕も中日ドラゴンズ所属の外野手。

2006年ドラフト会議にて、中日、阪神、巨人の3球団から1巡目指名を受け、中日が抽選で交渉権を獲得したため、父・兄と同じチームに入ることになった。親子3人がプロ野球選手かつ同一球団に所属するということは史上初であった。なおこの時の阪神ハズレ1位は野原将志、巨人ハズレ1位は坂本勇人である。背番号は24。

中学卒業後は、野球の名門校として知られる愛知工業大学名電高等学校に入学。1年生からレギュラーを獲得し、2005年(平成17年)春の第77回選抜高等学校野球大会では、4番に座り2本塁打を記録し優勝に貢献した。同年9月には全日本高校選抜として、韓国で行われた第六回アジアAAA選手権大会に参加し、2本塁打で最多本塁打のタイトルを獲得。ポジションは遊撃手、選抜優勝時には三塁手として出場した。高校通算55本塁打で、他校の捕手から「どこに投げても打たれるから投げる球が無い」と言わせる程の打撃センスの持ち主である。

2005年(平成17年)夏の甲子園に向けた愛知県大会では、豊田大谷高校とのナゴヤドームでの決勝戦で本塁打を放った。2006年(平成18年)夏の甲子園に向けた愛知県大会では、10四球と勝負を避けられる場面が多かったが、14打数7安打と打率5割を記録し、県大会優勝の原動力として活躍。しかし、本大会では初戦敗退を喫した。高校時代の甲子園3大会(2005年春、2005年夏、2006年夏)の通算打率は.480。